小説は主に純文学と大衆文学に区別されます。

純文学は文章が固く、小難しい小説で、大衆文学は読みやすい小説、といった認識の方も多いのではないでしょうか。

ですが、純文学と大衆文学の定義としては、それだと主観的すぎる気がしますよね。

純文学の面白さは分からないなんて方もいらっしゃると思います。

私も高校の途中までは純文学の面白さが分からなかったのですが、一度純文学の魅力に気付くと大衆文学もより面白く読めるようになりました。

いったい何を基準に純文学と大衆文学は定義されているのか?

それぞれにどんな魅力があるのか?

そんな純文学と大衆文学の違いを解説していきます。



そもそも純文学と大衆文学って何の区分け?

純文学と大衆小説は区分されていますが、これはいったい何を区別されているのでしょう?

小説の区別といえばジャンルで分けることが第一に浮かびます。

しかし純文学、大衆文学どちらでも書かれているジャンルというのもあります。

例えば恋愛小説は、堀辰雄さんの『風立ちぬ』などの純文学にもありますし、森見登美彦さんの『夜は短し歩けよ乙女』などの大衆文学にもあります。

純文学と大衆文学はジャンルで分けられているわけではありません。

では何で分けられているかというと、作品の目的です。

純文学はより美しい文章を書くという目的のもので、大衆文学はより面白い内容を書くという目的のものです。

ここで注意していただきたいのは、あくまでも作品の目的で区別されているのであって、作家で区別されているわけではないという点です。

これまで大衆文学を書いていた作家でも、美しい文章表現を重視して小説を書けば、その小説は純文学です。

この作家が書いているから純文学、といった分け方ではなく、作品一つ一つで違ってきます

ではその純文学と大衆文学のスタイルの違いである美しい文章と面白い内容について、詳しく解説していきましょう。

まずは文章は純文学と大衆文学でどう違うのか説明します。

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純文学と大衆文学の文章の違い

純文学と大衆文学の違いとして、純文学は美しい文章を目的として書かれているという点が挙げられます。

純文学は基本的に「芸術性」に重きを置いている文学と言われ、面白さよりも美しさを求めます。

インパクトのある内容などを削り、純粋に文字だけでどこまで美しく表現できるのか突き詰めるから”純”文学なんですね。

純文学は非常に細かい部分まで気を配って書かれている精妙なものです。

精妙が故に地味という感想を持たれてしまうこともありますけどね。

具体的には漢字とひらがなのバランスや、声に出してみたときのリズムなど、普通に読んでいては気にしない部分に魅力があるのが純文学です。

例えば、夏目漱石の『吾輩は猫である』の冒頭、「吾輩は猫である。名前はまだ無い」という部分、声に出して読んでみるとすごく心地いいリズムなんですよね。

もちろん、大衆文学でもそういった部分に気を遣っている作品はあるでしょう。

ですが、その文字表現の細かい部分に気を遣っているだけにとどまらず、突き詰めようとするのが純文学です

純文学は文章表現こそが目的ですが、大衆文学は文章表現は内容を伝える手段に過ぎないというのが純文学と大衆文学の文章の違いです。

では、内容のほうは純文学と大衆文学でどう違うのでしょうか。



純文学と大衆文学の内容の違い

大衆文学は「娯楽性」に重きを置いている文学と言われます。

文章は内容が伝わればよいので重視されず、話の筋が面白ければいいというのが大衆文学のスタイルです

より多くの人に受け入れてもらえることが目的ともいえるので、大衆文学は純文学よりも売り上げは伸びやすい傾向にあります。

具体的には、文章よりもトリックなどの内容が重要な推理小説、発想が大事なSFなどはほとんどが大衆文学に属します。

それに対し、純文学の内容は作者自身の考えなどが書かれていることが多い印象です。

20世紀には私小説こそが純文学であるという主張すらありました。

私小説というのは、平たく言ってしまえば自分語りです。

友人などと話しているとき、自分のことばかり話している人とかいますよね。

そういった自分語りの内容は大抵つまらないものです(笑)

そのつまらない自分語りを、表現の技巧などによって価値のあるものに高めたものが純文学です。

ある意味では純文学は自己満足の世界で、読み手のことは意識されていません。

大衆文学は読み手の理解力や読みやすさといったことまで考慮された作品です。

細かいところまで目を配る余裕はなく、暇つぶしにささっと小説を読みたい時などは、話の筋が分かれば楽しめる大衆小説のほうがいいですね。

文章と内容が違う純文学と大衆文学は、楽しみ方も違います。

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純文学と大衆文学の楽しみ方の違い

純文学と大衆文学はどちらも重視しているポイントが違うので、楽しみ方も違ってきます。

純文学はつまらない小説、という考えを持っている方はいるんじゃないでしょうか。

大衆文学は普通に読み進めてれば面白く感じられるように書かれていますが、それと同じように純文学を読むと確かにつまらなく感じると思います。

しかし、文章の美しさや、心理描写などの目に見えないものの表現、言葉の選び方といった細かい部分に目を向けると、純文学の面白さが分かってくるでしょう。

私も高校生くらいまでは純文学の面白さがよく分からなかったのですが、森鴎外の『舞姫』を読んだとき文章の美しさに衝撃を受け、それ以降純文学を読むのも面白いと感じるようになりました。

純文学は色々な作品を読むと作者ごとの文章の違いなどが分かってきます。

ただ純文学の魅力は芸術性ですので、かなり人を選ぶ部類ではあると思います。

個人的意見ですが、面白いという感性よりも美しいという感性のほうが人によってばらつきが大きいように感じます。

自分がいいと思った文章が、周りではあまり評価されてない、という状況はちょっと寂しいですよね。

それを考えると大衆文学のわかりやすさは、ネットなどを通じて様々な人と感想を共有できる現代では、非常に魅力的な点であるといえるでしょう。

一人で没頭できる純文学にも、多くの人と楽しめる大衆文学にも、それぞれ違った魅力があります。

さて、ここまで純文学と大衆文学という二つに絞ってみてきましたが、それ以外の区別はあるのでしょうか。



純文学や大衆文学以外の小説

純文学、大衆文学の枠組みに収まらない小説というのもあります。

最近だとライトノベルも出てきていますね。

大きく考えれば大衆文学に属するのかもしれませんが、大衆文学よりもさらに読みやすく、対象もジュブナイル(少年、少女など)に絞っています。

一部の読書好きには「ライトノベルなんて本の内に入らない」なんて意見もあるようです。

ですが、若い人や普段本を読まない人にも読みやすい文章を書くというのは技術の一つであると私は考えています。

挿絵や会話が多い、という点も『ふしぎの国のアリス』などの児童文学を例に挙げれば、少なくとも本の内に入らないなんてことはないでしょう。

また、海外文学も区別が難しいです。

というのも、純文学というのは日本文学に使われる用語ですし、そもそも外国の言語で書かれた小説に文章の美しさを求めるのはなんだか違う気がしますよね。

実際海外の小説の区別は基本的にエンタメ小説とそれ以外、といった分類しかしていないようです。

『戦争と平和』や『罪と罰』は決してエンタメ小説とは言えませんが、純文学とも違う印象を受けました。

こういった小説を純文学を書く作家が翻訳したら純文学になるのか、なんて想像するのも楽しいですね。

海外には純文学という概念は存在しません。

裏を返せば、純文学とは日本でしか楽しめない文化です。

せっかく日本人に生まれたのなら、純文学も楽しみたいですよね。

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純文学と大衆文学の違いは?海外の文学には純文学は存在しない?のまとめ

今回の記事はお役に立っていただけましたでしょうか。

国語の授業の経験上、純文学はつまらないと思っている人も多いと思います。

しかし、授業などで無理やり読まされるのではなく、自発的に読んでみると純文学の魅力に気付くかもしれません

また、純文学は大衆文学と比べて高尚だ、なんて思っている人もいると思います。

大衆文学の中でも文章の綺麗な作品は多いですし、読みやすく書くというのも技巧の一つです。

どちらかに偏らず、どちらも読むことでそれぞれの良いところを確認できますよ。

最後まで読んでいただきありがとうございました。